プロフィール

Author:紫陽花亭瓶輔
「清く正しく」より「美味しく楽しく」をモットーに
日夜、不規則正しい糖質制限とアルコール消毒に励む飲んだくれ後期ミュージシャン

目下の関心事:陽だまりのねこ、大衆酒場、コの字カウンター、落語、料理らしきものの捏造、男子投げやり、自炊、糖質制限、人生の断捨離、東京Swallows(順不同)

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旭天鵬と大島親方と倉敷の思ひ出

旭天鵬関、初優勝おめでとう!
昭和以降、最年長力士の快挙だ
モンゴル出身とか、日本国籍だとか
そんなことはどーでもいい
おぢさんが頑張るのは、とてもとてもよいことだ

ちなみに、旭天鵬と松井秀喜は同い年で
旭天鵬と紫陽花亭は、誕生日が同じだ

しかしだ、横綱大関が7人もいて
平幕が優勝するって、どーゆーことなんだ?

まぁ、それはいい
定年退職をした、彼の元の師匠は大島親方
背中の膏薬がトレードマークだった昭和の名大関だ

旭国といえば 倉敷でのある出来事を思い出す
以下は、十数年前に当時捏造していたHPに残した文章らしきもの
添削してもロクな文でないことに変わりないので
原文のまま、転載してみる

もう20年以上も昔のことになりますが・・・ 
仕事を始めた初期の頃の強烈な体験です
まだ学校回り(芸術鑑賞教室)がメインの仕事だった頃です

その日は呉で仕事をして,その後翌日の公演地・倉敷に移動しました
ホテルにチェックインした後,皆と連れだって食事にでかけたものの
下戸が多くてちょっと飲み足りなくて
当時一番の飲み仲間だった同期の女の子とふらっととある店に
入った瞬間「しまった!」と思うような店構えでした
カウンターだけの完全不明朗会計
おそらく30代後半のママが
一人で切り盛りしている、ちょっと謎めいた空間で
一角には茶器を飾る棚があって
一見して高そうな器が並んで・・・ そんな店でした
それでもタカをくくって飲んでいると、奥の調理場から男性が
あとで知ったんですが,そこは男性が愛人にやらせている店で
週に一度だけダンナが板場に立つんだとか
我々はちょうどその日にぶち当たったのでした
今となっては,もう何を食べたかの記憶はまったく残っていませんが

いろいろ話しているうちに
幸い相方が焼き物に詳しかったのでそこそこに盛り上がり
それとなく歓迎されている雰囲気は伝わってきました
で,話の前後は忘れましたが「相撲取りは誰がいいか」という話になったのでした
当時は北の湖の全盛期
当然「ここが今夜のヤマ」とピンときました
「地元ならば鷲羽山だけど,旅の者がそう言ってはあからさますぎるし・・・
かと言え,北の湖なんて答えようもんなら塩まかれそう・・・
だったら素直にてめーの贔屓を申告するか」と思い巡らせ
おそるおそる「旭国はいい関取ですねー」と答えたところ
突然ダンナが私の手を両手で握り
「おきゃくさん,あんたは男のロマンがわかる人じゃ」と言ったのでした

さて,それからがすごかった
すぐに女性に命じて店を閉めさせ
「ワシは酒はこれしか飲まん」と言って
カウンターにマーテルをどん!と置いたのでした
さしつさされつ,グラスが空く瞬間もなく
またたくまに1本が空いて次の1本に
もうこうなるとハラくくるしかないと思い
とことん彼に付き合いました (でもちょっとこわかった)
相方は酔って途中から寝てしまうし
恐る恐る「お勘定」と尋ねると「1万でいいや」とのお答え
かろうじて持っていたのか,若干足りなかったか
最後はどうなったのかよく覚えてないくらい
「お客さんはどこに泊まってるんだ?」の問いに
駅前のビジネスHの名を出すと
「そんなちんけな所はやめろやめろ、ワシのホテルに来い」と言われ・・・
でも,それはラブホテル
それは丁重にお断りして店を辞したのでした
確か彼はパチンコ屋とラブホテルを倉敷で何軒も経営してたかと・・・

駆け出しの頃の鮮烈な思い出のひとつです
もう一度尋ねてみたい気持ちもあるけど
きっともう店もないでしょう
倉敷というと,必ず思い出す出来事です
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テーマ:こんなことがありました
ジャンル:ブログ

サブローさんとシローくん

このお二方には、けっこうお世話になった…

ああ、実際にお世話になったのはサブ様のほうね
今もコンスタントにお世話になっている訳で
今年は祝!ゲーノー生活五十と一年
本年もどうぞよろしくお願いいたします

一方で五十と五年で最近旅立った芸人さんがいる

…さてさて、日本ムしカえシ話

当時、10時にCX入りというのは
けっこうプレッシャーだった(早過ぎて)
もちろんお台場ではなく、河田町の時代だ

リハーサル室に集合すると
すぐにフメンが配られ、10数曲分の音合わせ
といっても、一曲は一分にも満たない
しかし、まだ眠くてろくに声が出ない
一通り終えると、主役を交えてドライリハの後、食事タイム

食事って、どうしてたっけかな?
カフェテリア式の食堂に行くより
「そば八」で食べることが多かったか?
「そば八」は、局内にある立ち食いそば屋だが
特に美味しかったわけでもないし、安くもなかった… かも
局内だから、お客さんは関係者やタレントばかりなのに
何故か壁は色紙で埋め尽くされていたっけ

そして、衣装に着替えてマイクロに乗り込むのが12時頃?
降ろされるのは新宿のど真ん中
高校生の頃は、まだ二幸のビルだった記憶が微かにあるが
真新しい建物の正面は、それはすごい人だかりだった
警備員に誘導されてエレベーターに乗り7階へ
お昼の生放送が終わるのを待って
セットチェンジが完了すると、いよいよ本番

いよいよ、と言っても収録は20分位で終わってしまう
それでも、3本録りか4本録りだった

そんな労働を3年か4年続けただろうか…

後年、そのお昼の生放送にも
約一年、毎週通うようになった
その番組は今もなお存続しているのだから
いやはや怪物番組である

公開収録だったが、観客募集の告知は一切されなかった(と思う)
実は、お昼の怪物番組の客の使い回しだったのだ
当のお客さんへも、事前には何も伝えられず
生放送が終わるとADが
「実はこれから…」と初めて知らされていた

最初はメンバーも固定せず
何となくマイナーなコーナーだったが
番組自体が注目されるにつれ反響も大きくなり
電車に乗っていると女子高生に指を差されて笑われたり
街を歩くと知らないおばさんに会釈されたり
学校公演では同じ衣装を着るので
ステージに立つとザワザワとなったり
…そんな時代だった

あ、その番組でですね
メンバーにニックネームをつける、とかの話になって
てっちゃんだの、新妻だの、久保田早紀だの
朝潮だの、さとう宗幸だの、に紛れ込んで
シローと呼ばれてた訳でして

この番組、CSで何度も再放送されていたので
書く事を遠慮していた
しかし、ある方のおかげで
封印されることになってしまった
そこで、めでたく書けることになったというお話

でも、こっちのシロ様とは
現場ですれ違ったことはあっても
面識はなかった

55歳… 早過ぎですね
そういうてめーも、もうリーチがかかっている訳で

このところ、55で旅立つ友人・知人が多いような気がして
自然とあれこれ考えてしまう…

合掌

テーマ:今日のつぶやき。
ジャンル:日記

ストーブに囲まれて

今年2度目の郡山行き
今は東京も十分に寒いのだが
やはり250キロ北へ移動すると
寒さに、若干痛さが加わる感じがする

着いた時にはさほどではなかった雪が
一夜開けたらてんこ盛りになっていた



それでも、この程度ではニュースにもならないし
電車が止まったり、人がすっ転んだりなんてことも起こらない
とはいえ、寒い

義祖父の法事に参列した
「築180年のお寺の本堂は、元々風通しの良い所でしたが
震災であちこち隙間が出来て、完璧冷暖房完備になりました」
とご住職
強い風が吹くと、みしみしと音がして
天井から吊り下げられた飾り物がゆらゆらと揺れる



並べられたストーブはなんと20台以上も
もっと北に行けば暖房も強力なんだろうが

2月の秋田や山形で学校公演をした時は
体育館のステージ上に並べられたストーブに囲まれて演奏したが
皆、衣装の下にジーンズをはいたり
出来る限りの重ね着をして自己防衛したっけ
それでも手がかじかんでフメンをめくるのも大変だったり
暖められた空気が屋根の雪を溶かすのか
10分おき位に雪崩のような音が響き
その度に生徒が声を上げたり、体育館は揺れたりで
演奏にならなかった事を思い出した
もちろん、ステージ上では皆平然として歌ってるフリをしてたんだが

体育館の中は、むしろ青森や北海道の方が暖かかった記憶がある

夏は夏で、隣のプールから歓声が聞こえる中
暖房完備の体育館で、指先から汗をぼたぼた垂らし
頭から湯気を出しながらながら労働したっけ
毎晩、水分補給と称して
ビールをしこたま流し込んでは、翌日に汗腺から排出
その繰り返しだった

そんな学校公演を千何百回?二千回?はしただろうか
多分、一冊本が書ける程の思い出がある
う~ん、よくやったよ

親鶏がトリモツご縁

実はこの親鶏話、ある再会のおかげだった
まだ駆け出しだった頃
てめーの軸足はクラシック業界に重心があった
スクールと呼んでいた学校公演(音楽鑑賞教室)を
年に100回以上こなし
北海道から沖縄まで、結構全国津々浦々までマーキング
全都道府県の居酒屋制覇も果たした
東京では、オーケストラの後ろに並んで歌い
ブラウン管にも度々露出し
日曜の朝に軍歌を歌ったり
土曜の晩に絵描きさんの片棒を担いだりもした
メイクをし、コスプレを凝らして
数十演目のオペラにも出演
その合間にアマチュア合唱団の棒振りをするという
当時は、そうした毎日がすごく楽しかった

学生時代に、何の因果かプロ合唱団で歌うことになり
それがきっかけとなって、ずぶずぶと底なし沼に足を進め
結局人生を棒に振ってしまった

そんな合唱団のひとつで、ボイトレをお願いしていたのがMさん
その後結婚しKさんになり
地元の愛知に戻って活躍されていたが
いつのまにか交流も途絶えてしまっていた

それが、共通の友人つながりから去年の秋にFacebookで再会
いろいろ会話を交わしていくうちに
ご両親が糖尿であることがわかり
当人もメタボ対策をしたい、ということで糖質制限を紹介
食材として豆腐干絲を紹介したところ、お気に召してくれ
「こちらからも何か送りましょうか?」
その提案に「では親鶏を!」と、送ってもらったのだ

堅い肉の絆だね …ってか

初めて買ったレコード

CDではなくレコード、それもドーナツ盤だ
フォークルことフォーククルセダーズの「帰って来たヨッパライ」だった

その作曲をした加藤和彦氏は、2年前の今日自ら命を絶った


ある冬休みのことだったと思う(発売日から推測するに1967年)
母親の実家にいたときのこと
朝、へんてこな音楽が聞こえてきて、目が覚めた
年上の従兄弟達が「ヤング720」を見ていた
おそらく「今話題のレコード」として紹介されていたのだろう

それがフォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」だった
東京に戻って、すぐレコード屋に走っていった(比喩的表現です)
当時、ドーナツ盤は¥370だった
「帰ってきたヨッパライ」には「さすらいのヨッパライ」という第二弾
究極の二番煎じがあるのだが、それも今も持っている
もちろんそれを、コロムビアの電蓄で聴いた

  で、家の中をぐぐってみたら、あった!
  「これが話題のアングラ・レコード!」というキャッチがすごい

  帰って来たヨッパライ


ヤング720は、関口宏が「ヤングの旗手」として司会をしていた
朝7:20から始まる若者向けの情報番組だ
「ヤング」という言葉も、時代の先端で輝いていた
もしあの時、もし従兄弟たちが「おはようこどもショー」を見ていたら
…と、これを読んで意味不明な人たちを置いてけぼりにしてみたりする


「帰って来たヨッパライ」は技巧的にもレベルの高い楽曲だった
語学用のオープンリールレコーダー(恐らくカレッジエース?)で
録音したヨッパライパートを回転を変え倍速で再生すると
あの奇妙な高音が生まれる
それを、普通に録音したトラックにオーバーダビングしているのだ

この技法は、後年「踊るポンポコリン」や「おしりかじり虫」に受け継がれているが
今はソフトウェア的に簡単に操作することができる
紫陽花亭も、つい先日「おしりかじり虫」のカバーを歌ってきたばかり

しかし、当時アナログ的に素人の大学生が同期させるのは大変だったろう
ひょっとしたら、日本初の試みだったかもしれない
「オラ東京さ行ぐだ」が本邦初のラップであることと共に
もっと賞賛されていい快挙なのである

実はその後、オープンリールのテープレコーダーを買ってもらい
ヨッパライごっこをしたことを告白しておく


その時の少年も、今や立派なヨッパライおやぢになった
音楽的影響も、少しは受けていたのかもしれないが
まさか彼らと広義的同業者になるとはね…
免許はあるが、ほとんどペーパーだし、時代も変わり
よっぱらい運転をすることもない


テーマ:今日は何の日(記念日)
ジャンル:日記

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